八千代台にタオル屋さんを出したかった理由②

八千代台にお店を出したかった理由は、両親に関係します。


この店舗の前を通るたびに何度も何度も頭の中で

『お店を出すなら絶対にここでやりたい』

来る日も来る日もそう思いながら出勤していました。


古着屋さんが閉店したくらいからずっと頭の中で思い描いていました。

シャッターいつか開けたいなと。


ここでお店を出せたら、両親になにかあったらすぐに駆けつけて助けることが出来る


イメージはそこから始まっていました。


その時はまだ若く漠然と思うだけでなんのお店をやるかまでは考えてはいませんでした。


*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*


私と介護についても触れておきます。

私が生まれた時、母は39歳、父は47歳。

姉は12歳。間にはきょうだいがいません。


待望の男の子が産まれるはずだったのに産まれたのは女の子。小さいころ姉と母によく言われて苦しんだこともありました。

知らんわ。

好き好んで生まれたんじゃないと。


父はそんなわたしを小さい頃からとてもかわいがってくれました。いつも味方をしてくれていたからこそ、父の面倒は最後まで見ようといつの頃からか覚悟していました。



お店を地元に出せたらすぐに飛んで帰れるんじゃないか?と思い始めたのも今考えればわりと小さい頃からでした。


当然介護の経験するのも同年代の誰よりも早かったです。


父は私が高校2年生の頃から心筋梗塞で入院し、それから長年患っていました。入退院も何度かありましたが、その度に何度も生き返る不死身な人でした。覚悟してくださいとお医者さんに言われたこと5回くらい。もう死なないんじゃないか?!


退院すると元気になって、いつも笑ってるorお母さんとけんかしてるかのどちらかの日々でした。

母は介護に神経質なくらい気をつけていたせいもありなのかな。ダメでしょ!が口癖でした。


5年前くらい、そろそろだなと感じてからが大変でした。1日は長く感じたけどあっという間の1年間。



脳梗塞2回目の入院。


「お父さんがおかしいのよ。早く来て。」


早朝呼び出しをされて実家へ。

救急車で運ばれて入院することに。

もちろん母の付き添いで病院へ。


治療というよりも落ち着くのを待ってリハビリへと。疑問を抱きつつもリハビリは、わりとすぐ始まりました。それとともに食事制限。

食べることが好きだった父の食事が流動食になりお茶もとろみのついたもの。「普通のごはんが食べたい」と毎日面会のたびに言っていました。


入院先で使っていたリースのタオルを見ていて、タオルの重要性に気付くきっかけにも。

硬くて痛いゴワゴワ。

せめてもと、お食事用のエプロンがわりに当時勤務していた職場で買ったタオルをプレゼント。

お守り代わりにそばに置いて使ってもらいました。それは少しでも食事が楽しくできるように選んだ、きれいな水色のパステルカラーのフェイスタオル。シャーリング加工で肌触りもいいものでした。時々持ち帰る時以外はほとんどそれを使ってくれていました。

リハビリにも持っていた姿も見れました。

その時はめちゃくちゃ嬉しかったなぁ(^-^)




途中心筋梗塞が併発し、一時は危険なときも。転院した病院の環境が安心出来る環境だったため一命を取り留めて元居た病院へまた帰ることに。


母も心臓病を患いすっかり弱くなり、私を頼り依存してきてしまいメンタルもギリギリの中でした。姉は当時役職についていることもあり忙しいのと断られることもしばしば。なんとか協力を得るものの若い私が病院の付き添いをするしかないのかなと自分で自分を追い詰めます。見えてないだけで色々動いてくれてたんでしょうけど、実働してる私の体力も気持ちも限界に近づきます。


当時は父の入院先の病院の面会を毎日してから遅番で日本橋まで通っていました。

働きながらの介護にもうダメだと限界を感じ店長に相談します。いったん仕事やめようかと考えたこともありましたが、せっかくやりたいと思った職につけたこともあり当時はかなり葛藤してました。職場の人たちには本当に申し訳ないと思いつつ介護休暇をとらせてもらい、介護に専念することになりました。



ところが介護休暇をとろうとした矢先に母も具合が悪くなりました。口では言い表せないほどその時が一番大変な時期でした。



母も入院となり両方の病院を掛け持ちで面会に。

時々姉も来てくれるようになりました。



その頃、父はポジティブな性格なので父が創立したふれあいサロンというコミュニティの15周年イベントに参加したい一心でリハビリを一生懸命頑張りました。全く動けない姿から歩けるまでに回復していったのです。目標があるとひとは生きる力が湧くんだなと目の当たりにした時でした。


わたしの前では気丈にふるまいおどけたり、平気なところを見せていましたが認知症も進んでいたのもこの頃でした。姉のことがわからなくなったこともあったそうです。それでも私は懸命に生きる姿に頑張れ頑張れとエールを送る毎日でした。


リハビリでいいとこ見せようとかなり頑張ってくれました。そしてそれにこたえてくれた父には今でも本当に感謝です。
父が頑張ってるなら私も頑張れるぞと勇気もたくさんもらったのを今でも時々思い出します😊



ながくなっちゃったな😅💦

いったんここで終わりにします。


つづく















ゆめを叶える今治タオル屋さん なごむ by756nagomu

ようこそいらっしゃいませ!ご縁をつなぐタオルソムリエの店主です。愛媛県出身でもないのに今治タオルをこよなく愛するほっこりなごむタオル屋さんです。社長業や働くママさん、そしてあなたのゆめを叶えるサポートもいたします。 Blogもよかったら読んでいってください。 どうぞごゆるりとなごむ時間をお楽しみください(^ー^)♪

0コメント

  • 1000 / 1000